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(東日本大震災15years Stories(ストーリーズ)=1)故郷のため歩み続けて/福島・南相馬市 志賀稔宗議員
交わす握手に、ぬくもりと力強さがある。笑顔の奥のまなざしに「悩みを解決してみせる」との闘志がにじむ。福島県南相馬市で公明党議員を務める志賀稔宗(73)は東日本大震災の後も、住民と悲しみも喜びも分かち合ってきた。地震、津波、原子力災害の三重苦と向き合い「1センチでも1ミリでも住民に寄り添い、期待に応える」と歩んでいる。
2011年3月11日午後2時46分。南相馬は震度6弱の揺れに見舞われ、沿岸に10メートル超の津波が襲来。東京電力福島第1原発の事故が起きる中、志賀は車とバイクを乗り継ぎ、住民の安否確認と避難を呼び掛けた。途中、ヘリコプターから避難を促された時、原発事故の深刻さを知る。
志賀の自宅は小高区にあった。住民は1万2842人。そこで妻・和子さんと和牛農家を30年余り営んできた。
小高は第1原発から20キロ圏内。原発事故が発生すると全域が避難指示区域となり、住民は散り散りに避難。妻は親族20人と西へ西へと逃れ、会津地方に身を寄せる。
当初、家畜の管理などで一部住民が居残った。志賀も踏みとどまり支援に当たる。1週間もたたない頃、志賀の携帯電話に電話がかかってきた。長女・三浦順子さん、和子さんらが放射線による健康への影響を強く心配した。「お父さんが自分を犠牲にしても報われないよ」「命の方が大事。早く避難して!」
「避難できない人もいる。おらも、ここさ残る」。志賀は、市内原町区の親戚宅で避難生活を続ける。そこで住民の困り事を五体で受け止め、公明党の県議、国会議員と連携。コミュニティーFMによる災害情報放送や安楽死が求められた被爆和牛を研究用として生かす道も開いた。
極限状態にあっても信念を貫く志賀。その粘り強さは青年時代に培われた。
■痛み分かち合い復興を前へ
旧小高町の山深い川房行政区で生まれ育った志賀。18歳で陸上自衛隊に入り、精鋭のレンジャー教育を受ける。「だめと言われてからが勝負」と自身を鍛え上げた。22歳の時、渡米し、剣道の武者修行。帰国後に結婚し、その後、和牛農家を継いだ。
1987年、周囲に推され34歳で旧小高町議選に挑む。公明党推薦、行政区推薦の形で初当選。以来、5期連続で勝ち抜く。鹿島町、原町市と合併した2006年の南相馬市議選では小高区の定数が18から6に激減しても過去最高得票で2位当選を果たす。
議会活動は、先輩議員にみっちり叩き込まれた。「稔宗君、そんな質問じゃ自己満足だ。相手の喉元にぐっと詰め寄る迫力がないと」と教わり、説得力を磨き上げる。
一時は人口ゼロとなった小高区。16年7月の避難指示解除から住民帰還と営農再開が進む。昨年、農家から水田再生に向け「物価高で費用負担が重い」と聴き、土地改良区の理事会で論陣を張る。賛同を広げ、小高と浪江、双葉両町の農家の負担軽減として結実。コメ農家の岡田敏文さん(75)は「本当に助かった」とほほ笑んだ。
原発事故の風評被害は差別をもたらし、市民の人権を踏みにじることもあった。志賀は「震災を経験した市民は差別の痛みが分かる」と人権条例の制定を提起。この叫びは市を動かし、23年7月に条例が施行。門馬和夫市長は「志賀議員の口癖は『岩に爪を立ててでもやる』だが、その通りに実行する人だ」と語る。
いま小高区に暮らす住民は約3800人で、震災前の3分の1。志賀は「不便なく暮らせるようにせねば」と医療や買い物、交通など生活インフラの向上に心血を注ぐ。
公明党が旗振り役を担う福島イノベーション・コースト構想の具現化にも余念がない。市内には航空宇宙産業の関連会社の進出が相次ぎ「実証の聖地」へ環境整備が進む。
和子さんと苦楽を共にし、人生の半分を懸けてきた和牛農家を原発事故で廃業した志賀。人知れず、その喪失感を胸に抱いてきた。だからこそ、人の痛みや苦しみに向き合う政治を誓う。住民のため、故郷の復興のために。
大震災発生から15年。故郷のために走り続ける公明議員を随時紹介する。(文中敬称略)=東日本大震災取材班 文・渡邉勝利、写真・大久保尭央