かつては近代製鉄で日本の発展を支えた岩手県釜石市。太平洋に面した「鉄と魚とラグビーのまち」である。9期35年にわたり公明党の市議を務める大ベテランの山崎長栄(79)。「人間主義の哲学を大事にするのが基本。その哲学が幹となり、枝葉が伸びる。人間の生命を第一においた政治を貫く」。そう心に決め、挑戦を重ねてきた。 * 2011年3月11日、経験したことのない激しい揺れに襲われた。「津波が来るぞ」と直感。「今すぐ水門を閉めなければ……」と本会議中の市議会議場を飛び出した。当時、市消防団の副団長だった。はんてんを身にまとい、車で水門の閉鎖へと向かった。 津波は早くも海岸に迫っていた。「もうだめか」。急いでUターンし、車を加速させた。国道の坂道に逃げ込み、高台へ避難できた。数秒差が生死を分けた。バックミラー越しに見た後続車が濁流にのみ込まれる光景、津波にのまれた人が「助けてー!」と叫ぶ姿が今も脳裏に焼き付いている。 自宅が流され、避難所生活を余儀なくされた山崎。親戚も20人以上が犠牲となった。しかし、悲嘆に暮れる暇などない。生かされたこの命を住民のために--。安否確認や流失した薬の入手、救援物資の搬送など、あらゆる支援活動に徹した。 1カ月後の4月中旬、山崎は一人の女性から相談を受けた。生活を共にしていた弟を震災で失い、遺族に支給される災害弔慰金の手続きに行くと門前払いされたという。「兄弟には支給できない。法律で決まっているから」と。「こんな不平等な制度はおかしい」。山崎は公明党の国会議員に実情を何度も訴え、制度の改正を求めた。 相談からわずか3カ月、法改正が異例のスピードで実現。生計を同一にする兄弟姉妹にも支給対象が広がった。 * 「命の道」と呼ばれる道路がある。震災6日前に開通した三陸縦貫自動車道「釜石山田道路」だ。3・11では、市の主要道路である国道45号が寸断した中、避難・救援道路として多くの命を救った。整備に力を尽くしたのは山崎である。地元町内会とともに期成同盟会を結成。井上義久衆院議員(当時)らと連携し、政府への陳情を重ね、早期開通を後押しした。 あの日、地元の小中学生がこの道路を通り、逃げられた。犠牲者を出さなかった。その避難劇は「釜石の出来事」と語り継がれている。当時、中学2年生だった川崎杏樹さんは「この道路がなければ寒い中で野宿せざるを得なかった」と述懐。「釜石のために一生懸命に動いてくれた大人の姿を見て、自分も力になりたいと思った」。現在は震災伝承施設「いのちをつなぐ未来館」で、命を守る防災の大切さを伝えている。 ■「助けが必要なとき、いつも隣に」 生まれも育ちも釜石市の山崎。千葉市への出稼ぎから帰郷した26歳の時、市消防団に入団した。祖父、父と続く3代目。44歳の初当選後も続け、49年間務めた。 あの日、団員8人が命懸けで住民を守ろうとして殉職した。悔しさはいっときたりとも忘れたことはない。「亡くなった仲間のために何ができるか」。そう自らに問い続ける中、消防団員の顕彰碑建立を思い立つ。「一日も早く彼らの名前を残そう」。自ら碑文を考え、19年3月に顕彰碑が完成。毎年3月11日には献花式が営まれている。 釜石大槌地区で消防長を務めた千葉栄さん(現・市議会議長)は、消防で苦楽を共にしてきた一人。「山崎さんは人の命を救うことに誰よりも厳しい。碑には団員一人一人を思う気持ちがあふれている」と語る。 今年4月、隣接する大槌町で山林火災が発生した。山崎はすぐさま現場に向かった。状況を確認した後「困り事はありませんか」「できることは何でもやります」と、住民宅を訪ね歩いた。同町の党員・村岡仁さんは「大槌には公明議員はいない。けれども、助けが必要なときにはいつも隣に山崎さんがいる」と大きな信頼を寄せる。 * 「あの時、もっと助けられた命があったかもしれない」。自責の念と後悔に苦しむこともある。それでも山崎は前を向く。昨年9月議会では、消防団の環境整備や震災の教訓・継承を訴えた。 「二度と同じ悲劇を繰り返さない。一人の命を守り抜くのが私の使命」。大震災から15年余、胸中に燃やし続けてきた信念のままに地域を駆ける。(文中敬称略) =東日本大震災取材班 文と写真・大門一義