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(児童手当と公明党)子育て支えてくれた/千葉・市川市の庄司さん大家族に密着/6男3女の母・伊子さん(93)「どれほど心強かったか」

公明新聞2025年9月20日付 3面

 焼け付くような暑さが続く8月末の昼下がり、千葉県市川市にある庄司さん一家の次女・泉さん(63)の家を訪れた。

 冷房がよく効いたリビングを広いと感じたのもつかの間。1人、2人、10人、20人と家族・親族が続々と集まり始め、すぐに部屋はいっぱいになった。1969年当時、父、母、子7人の計9人だった庄司さん一家は、今や、母、子9人、孫17人、ひ孫11人の計38人の“大家族”に。この日は22人が集まった。

■子育てに理解なき時代

 「ああ、なつかしい……」。大家族を育て上げた功労者である母・伊子さん(93)は、69年の公明グラフに載った家族写真を手にして顔をほころばせた。その周囲で子どもたちは伊子さんに寄り添うようにして写真を眺める。「この日は風が強かったね」「みんな小さくてかわいい」「お父さん(故人)も若いね」。セピア色の思い出話に花が咲く。

 「子育てを苦しいと感じたことはないよ。子どもが好きだから」と気丈に語る伊子さんだが、子育てへの理解や支援が乏しい当時、9人の子を育てるのは容易ではなかった。「ある日、市役所の窓口に相談に行ったら、“なんでそんなにたくさん産んだんだ”と、子どもを産むことが悪いかのように冷たく突き放された」。政治の主流に子育てや福祉がなかった時代。「公明党が実現してくれた児童手当がどれほど心強かったか」。伊子さんの言葉に力が込もった。

 68年4月から市川市で始まった児童手当は、第4子以降に月1000円を支給する制度だった。市議会公明党が67年12月の定例会で訴えて実現。当時、7人の子がいた庄司さん一家には、同9月から月4000円分が支給された。68年の大卒初任給が月3万円程度だったことを踏まえると、児童手当が家計の支えになっていたことが分かる。

 第4子である泉さんは69年4月に小学校に入学。「決して裕福とは言えない家庭だったが、児童手当のおかげで、お古ではなく新品のランドセルを買ってもらえてうれしかった」となつかしむ。ほかにも児童手当で、学習教材などを購入し、きょうだいで仲良く使ったという。

■制度を“当たり前”にした歴史/孫、ひ孫に伝えたい

 母の深い愛情と児童手当に支えられた庄司さん大家族。巣立った子どもたちも、それぞれが家庭を持った。その多くが、公明党の奮闘により国の制度となった児童手当に助けられた。

 中学生と小学生の息子がいる末っ子の六男・伸明さん(52)は、親になって子育ての大変さ、児童手当のありがたさを実感した。「児童手当ができた歴史を知らない孫世代、ひ孫世代にも伝えたい。当たり前でないことを当たり前にする政党が公明党だと」

 子育てを経験した長男・良政さんと双子の次男・良明さんは「公明党のおかげで制度が拡充され、本当に良い時代になった。庶民の目線で、党創立者が示した結党の原点を忘れずに頑張ってほしい」と期待を寄せる。

■公明党を信じている

 取材の最後に全員で記念撮影をした。かけ声は「おばあちゃんだいすき!」。草創期から党を支えながら、子どもたちを慈しんできた“母”への感謝の思いであふれていた。

 「私はずっと公明党を信じている。だから今も将来も不安はないよ」と力強く語る伊子さんの表情は晴れやかだ。「100歳になったら、家族全員に食事をごちそうすると約束したからね。まだまだ元気に生きるよ」

 大家族で食卓を囲む未来が目に浮かぶ。

 〈文・高橋悠斗、所正夫、写真・南知成、中嶋宣城〉

■公明が創設・拡充をリード

 福祉の党の金看板、ここにあり--。公明党は、児童手当の創設・拡充をリードしてきた“生みの親”“育ての親”だ。

 1963年10月に党の前身である公明政治連盟の第3回全国大会で「児童手当制度の新設」を掲げて以来、党を挙げた一大運動として展開し、68年5月には他党に先駆けて児童手当法案を国会に提出した。

 また、党地方議員の奮闘により、千葉県市川市や新潟県三条市など各地の自治体で国に先行して導入を実現。こうした地方の動きに押されて、国では72年1月に制度が始まった。

 以降、対象や支給額の拡充を推進。2024年10月分から、所得制限の撤廃や高校生年代までの対象拡大などを実現した。

 「こどもの幸せを最優先する社会」の実現へ、公明党はこれからも走り抜いていく。