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(東日本大震災15年)「人間の復興」へ、寄り添い続ける。

公明新聞2026年3月11日付 3面

 「生命・生活・生存を最大に尊重する人間主義」を政治理念とする公明党は、東日本大震災の発災直後から「人間の復興」を掲げ、被災者一人一人に寄り添い続けてきた。そのけん引役を長らく担ってきた山口那津男(発災当時、党代表)、井上義久(同幹事長)の両常任顧問に15年の思いを聞いた。=東日本大震災取材班 聞き手=所正夫、鈴木陸人、水野陽太、動画=比義広太郎

■被災地の痛みは、わが痛み/山口那津男・党常任顧問(元代表)

 被災地の痛みをわが心の痛みとして、公明党が一丸で挑んできた「人間の復興」。その歩みに思いを巡らせる時、東北の地で出会った被災者一人一人の姿が鮮明に脳裏に浮かびます。

 宮城県のある避難所では、一人のお年寄りが毛布に身を包み、片隅で静かにうずくまっていました。「何もかもが流された」「生き残ったのがつらい」。絞り出すような悲嘆に、私は震える手を握りしめることしかできませんでした。復興とは、こうした深い絶望の淵にある方々のためにこそ、あらねばならない。そう心に刻んだ出来事でした。

 福島県の漁港では、一人の青年漁師との邂逅がありました。彼は激しいけんまくで私に詰め寄りました。「この先、何の当てもない。政治家なんて言葉だけで何もしないじゃないか」。私はとっさに青年の手を取り、「おっしゃる通りだ。だからこそ、共に立ち上がろう」と真剣に訴えました。しばしの沈黙の後、青年は澄んだまなざしでぽつりと答えました。「信じていいんですね」。絶望の底から再生へと踏み出す「人間の復興」の第一歩を、そこに垣間見た思いがしました。

 被災者との心の交流で忘れ難いのは、福島県大熊町から、いわき市へ避難を余儀なくされた南場昌子さんとの絆です。南場さんが自治会長を務めていた仮設住宅で、街頭演説を開催させていただいた感謝と復興への決意を込め、私から1枚のハガキを送りました。後日、南場さんがその“手紙”を「宝物」として今も大切にされていると伺い、万感胸に迫るものがありました。

 「どこまでも被災者のために」と、仲間と駆け抜けた15年。被災地では、住まいやなりわいが確保されるだけでなく、新たな活気も芽吹いています。もちろん課題は少なくありません。しかし、復興は着実に前進していると実感しています。

 公明党の取り組みに対し、政府復興構想会議で議長を務めた五百旗頭真氏(故人)は「幸いなのは、公明党のように被災者への思い入れの深い野党が存在したこと」(2011年11月27日付 毎日新聞)と評価を寄せてくださいました。

 与党であろうが野党であろうが、「人間の復興」が成し遂げられるその日まで、いかなる時も被災者に寄り添い続ける--。私自身、そう心に決めています。この決意は、後輩たちに受け継がれているものと強く確信しています。

■「大衆とともに」こそ希望/井上義久・党常任顧問(元幹事長)

 “あの日”巨大津波で2万人近い命が一瞬で奪われ白砂青松の景色が消滅したことに大きな衝撃を受けました。先進国・日本で命を守れない、政治はこれまで何をやってきたのか--。無力感すら覚えました。

 避難所を回ると食料も水も足りない現実にがくぜんとしながらも、ひとすじの光と思えたのは公明党の地方議員の存在でした。自ら被災しながらも懸命に被災者に尽くす。そこには「大衆とともに」の立党精神が言葉や観念ではなく、生命に脈打っていたのです。

 当時、公明党は野党でしたが、被災市町村に国会議員の「担当制」を敷き、地方議員と連携して現場の生の声をリアルタイムで政府に伝え続けました。被災者や被災地の直面する課題を地方議員がすくい取り、国会議員が“わが事”として解決に取り組みながら発災から半年で800項目近い具体策を提言。仮設住宅の環境改善などに結実しました。これこそが公明党の真骨頂です。

 復興は「風評」「風化」の二つの風との闘いです。風評には正確な情報で対峙し、二度とこのような犠牲を出さないため、経験と教訓を次世代へ継承し、風化にあらがう。そのために政治には「法律と組織」を整える使命があります。

 公明党が最初に訴えた「防災・減災を社会の主流に」との理念は次々と具体化し、その一つとして今秋にも「防災庁」が創設されます。公明党は憲法に定められた幸福追求権と生存権に基づく「人間の復興」に取り組んできました。今も癒えない心の傷に苦しむ人々が希望を持って前を向けるその日まで、私たちは寄り添い続けていきます。

https://digital.komei-shimbun.jp/movies/movies-originals/movie-20260311