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(東日本大震災14年6カ月)「大衆の中に入りきって」福島復興支えたい
公明党の力の源泉は「大衆とともに」の立党精神だ。公明議員は勇退してもなお、その体現へ生涯を懸けている。東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の被災地でも、OB・OGが「大衆の中に入りきって」奮闘。その陣列には発災以来、被災者に寄り添い、復興副大臣も務めた2人の元参院議員が続く。若松謙維氏(70)と浜田昌良氏(68)の姿を追った。=東日本大震災取材班 文=大門一義、写真=千葉正人、動画=比義広太郎、恒松耕平、小嶺浩明
■事務所構え生業再生支援へ/大熊町 若松謙維氏
「こんにちは! 大熊に事務所を開いた若松謙維です。何でも相談してください」。若松氏が手渡す名刺には「大熊インキュベーションセンター」の住所が記載されている。そこは福島県大熊町で起業をめざす人を支援する拠点施設だ。
今年7月、参院議員を勇退した若松氏は公認会計士としてのキャリアも生かし、同町での生業再生支援活動を本格始動した。8月30日にも同町で住民と交流。参院議員、復興副大臣として関わってきた自治体関係者や事業者の声を聴いた。
「若松さんに相談すると県、国と調整し、課題を解決していただいた」。吉田淳町長は若松氏の活躍をよく知る一人。「町が整備した施設に若松氏が事務所を置いてくれ、より身近な存在になった。今まで以上に頼りにしています」と期待を寄せる。
同町ではキウイフルーツの栽培が盛んに行われていた。しかし、原発事故で全町避難を余儀なくされ、畑は失われ、農家は一戸もなくなった。2023年10月、当時大学生だった阿部翔太郎さん(24)らが株式会社ReFruitsを立ち上げ、キウイ産地復活へ挑んでいる。若松氏は阿部さんの案内でキウイ畑を視察。「豊かな土地が耕作放棄地となっていることは胸が痛い。大熊でIT技術を使ったデータ収集・分析、ドローン活用で“持続可能な果樹農業”モデルを築く」と未来への展望を話す阿部さん。若松氏は「大熊、日本の農業の希望となる取り組みを支援したい」と語った。
町内の居住者数は1502人。うち住民登録しているのは1047人で避難先からの帰還者数は319人(今年8月末現在)。町には昨年、党員の阿部幸七さん(67)、節子さん(67)夫妻も戻ってきた。若松氏は阿部さん宅を訪れ、党の支持と公明新聞愛読への感謝を述べた。阿部さん夫妻が「病院や買い物は車で富岡町や浪江町に行かないといけない」と話すと若松氏は「“大熊町民”として町の発展に尽くす」と決意を述べた。
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1993年の衆院選(旧埼玉5区)で初当選した若松氏は、公認会計士として初の国会議員となった(当選同期に公明党の谷口隆義元衆院議員)。3期10年を務め、2003年の衆院選(旧埼玉6区)で惜敗。その後は、公認会計士と国会議員の知見と経験を生かし、公明議員と連携しながら東北、全国の企業や地域の再生に奔走してきた経験がある。
2011年3月11日、東日本大震災が発生すると若松氏は、埼玉・上尾市の自宅から、救援物資をかき集め福島へ急行。郡山市、いわき市に届け、要望を聴いた。被災地へ足を運び続ける中「自治体ごとに課題が異なる」ことを痛感。公明党の現職国会議員と連携し「被災3県の担当制」を提案し、導入を実らせた。そして13年の参院選比例区で初当選してからは徹して、現場に入り、被災地の復興のため走り続けてきた。
「仮設住宅で一生を終わりたくない」。若松氏が復興副大臣を務めていた15年、ある被災者の声を聴く。そこから若松氏の行動は早かった。関係省庁へ働き掛け、建設会社にも直談判、災害公営住宅の早期整備を加速させた。
今年8月30日、大熊町役場前で夏祭りが盛大に開かれ、県内外から集まった町民でにぎわった。若松氏も会場を訪れ、参加者と交流。元松山市職員で福島県から町復興事業課に派遣され下水道整備に関わっている細川幸英さんをねぎらうとともに復興の現状を聴取。また、同町産米・五百万石で日本酒「帰忘郷」を醸している一般社団法人おおくままちづくり公社事務局次長の井上昇、笠原保男の両氏から出来栄えを尋ねた。
若松氏は富岡町にも足を運び、震災後、新たにブドウ畑を整備し、ワイン造りまで行う「とみおかワイナリー」を訪れ、遠藤秀文代表取締役社長と懇談。
さらに浪江町では、福島国際研究教育機構の山崎光悦理事長と意見交換。ロボットなど世界最先端の研究・開発や廃炉に関わる人材育成へのビジョンを聴いた。
また、同町へ今年、移住した元秋田市議の堀井明美さん(79)宅を訪問。堀井さんは議員勇退後も、同市で自殺対策や生活困窮者支援のNPO理事長として活動してきたことを報告。若松氏と堀井さんは共に生涯、立党精神を貫き、地域に尽くし抜くことを誓い合った。
■まち作りへ町民と共に歩む/双葉町 浜田昌良氏
復興副大臣の時、福島市の公務員住宅に暮らし被災地へ通い続けた浜田昌良氏。参院議員勇退後の2022年10月、横浜市に家族を残し、双葉町へ移住した。住まいはJR双葉駅にほど近い町営「駅西住宅」(86戸)である。住民組織「双葉町結ぶ会」の結成を支え、町民と共にコミュニティー再生や町の復興へ歩む浜田氏に語ってもらった。
3年前、入居した頃は30世帯だったが、今は80世帯を超えている。2年前に診療所が開設され、先月は駅前にスーパーがオープンした。これまで車で買い物に出掛けていたが、サンダル履きで行ける。町は一歩一歩、暮らしやすくなってきた。町に戻ってきた人は「やっぱり古里は心が安らぐ」と話している。
公明議員OBとして町民、そして党員や支持者と喜怒哀楽を共にしているつもりだ。勇退しても、いかに「大衆とともに」の立党精神を実践するか思索を重ねてきた。現職の時「大衆の中に死んでいく」とは災害に直面して命懸けで活動することもあると思っていた。しかし、立党精神の淵源となった党創立者の講演では、その前に「大衆の中に入りきって」との言葉があることに気付いた。議員を終えても立党精神のまま、衆望を担い続けることと受け止めている。
公明党の議員、とりわけ地方議員は、課題解決へ靴をすり減らし、法律や行政の“壁”を破ろうと闘ってきた。被災地は特にそうだ。そんな“土の匂い”が公明党らしさと考えている。
その公明党の真骨頂は災害対策だ。災害は「人生最大の不条理」である。それに直面した時、人が再び前を向くことは容易ではない。その人が苦しい思いを吐き出し、未来を描くようになるのが「心の復興」だと思う。「ハードの復興」は完成形があるが、「心の復興」を「人間の復興」へ昇華させる流れを追い続けること自体が復興ではないか。
双葉が新生の町になるまで伴走したい。45年3月に法的期限を迎える中間貯蔵施設(大熊町、双葉町)の除去土壌の県外処分完了を見届ける決意だ。
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今月5日、楢葉町で避難指示解除10年を記念する式典が開催された。同町は、原発事故により、ほぼ全域で避難指示が出され、2015年9月5日に解除されている。
「『復興』は元の状態に戻すことではありません。『新生楢葉町』にお力をお貸しいただきたい」「皆様とともに、次の10年をめざして、ともどもに歩んでまいりましょう」
浜田氏は、復興副大臣時代から心を寄せ、通い続けた避難地域12市町村の一つ、楢葉町の10年の歩みにメッセージを寄せた。そこには「心の復興」「人間の復興」まで寄り添い続けるとの強い思いがある。
「遊具のある公園で子どもを遊ばせたい」。子育て世代のお母さんから相談を受け「遊具の設置と学童保育の環境整備」を町に要望した浜田氏。住民からの信頼は厚い。
双葉町での暮らしは来月で3年。時には、自分で釣ったハゼやイシモチを料理する。来客があれば、買い置きと駅前スーパーから買い出した食材で、マーボー豆腐やパスタを手作りし、振る舞うことも。「生活感を大切にし、これからも住民とともに泣き、笑いながら暮らしていきたい」。「大衆の中に入りきって……」と立党精神をひとときも忘れることはない。