(1面から続く) 垰田英伸の朝は早い。東の空が白むころには交差点へ。平日は、それから3時間。土日は最低でも6時間。予定がなければ、西の空へ沈むまで太陽と共に、時を刻む。毎日続けると、はじめは素通りする人とも自然と交流が生まれる。「いろんな人に声を掛けてもらえるようになった」。そう語る垰田から疲れた様子はみじんも感じられない。 間近に迫る市議選の予定候補になった2020年7月、駅前に立つ“駅立ち”を始めた。自身の政治信条をマイクで訴えてみるも、何かが違う。「市民との交流を大事にしたい」。そう感じて3日目から場所を交差点に。その後、演説もやめた。 街頭活動は“何のため”にやるのか。垰田が思い至ったのは「市民の声を聴くため」だ。「思いやり」を信条とする垰田らしい。演説をせず、ひたすら交差点で市民を待ち続ける独特のスタイルを築いた。 ◇ 堺市で生まれた垰田は、不遇な環境の中で育った。父は朝から酒を飲んでは、母に暴力を振るった。母は必死に働き家計を支え、垰田を愛知県にあるラグビーの強豪大学に送り出した。 夢を描いた学生生活。現実は違った。ラグビー部でレギュラーになれず、経済的にも苦しかった。何もかもうまくいかなくなり、矢作川の河原で大学の先輩・沢田晃一に愚痴をこぼした。沢田は言った。「今のお前は負けている。振り向くな、走り続けろ!」。見上げると、満天の星々が瞬いていた。この時は思いもしなかったが、沢田は後に公明党の名古屋市議になる。 垰田は大学卒業後、福祉の道へ。高校生の時、寝たきりの祖母を抱っこした時の肌のぬくもりが忘れられなかった。何より、自分が働いて母に親孝行をしたかった。しかし16年4月、母は膵臓がんに。「私に恩返ししたいなら、ひとさまのために生きなさい」との言葉を垰田に遺して旅立った。 葬式に参列した母の友人が「あんたのおかんは、生活に苦しんでいる人がいれば、お弁当を作って家に届けてたんやで」と。人目もはばからず涙した。垰田はこの時、「生涯、おかんのように、困り苦しんでいる人を守り抜く」と誓いを立てた。 ◇ 交差点で舞い込む相談者の多くは、まさに、頼る先がなく、困り苦しむ“無名の庶民”。だから垰田は、時間の許す限り交差点で、その声にじっと耳を傾け寄り添う。そして数々のドラマが生まれた。 ある夏の暑い日、街頭活動に汗を流す垰田を見ていた小学生の女の子が、ペットボトルに入った水を差し入れてくれた。後日、その女の子から手紙が。「私も垰田さんみたいに、いろんな人の役に立てる、尊敬できる人になりたい」。真っすぐな心に、胸が打たれた。応えずにはいられない。子どもたちが安心できる未来を必ず築く。その決意を込め、ペットボトルのキャップをタスキに結んだ。 心ない罵声や中傷--。交差点に立てば、悔しい思いをすることもある。そんな時は、このキャップをぎゅっと握る。そうすれば「何度でも立ち上がれる」。 一人でも多くの人の役に立ちたい。垰田は訪問活動にも向かう。街頭活動が終わった後でも「正直、足が痛い」と笑いながら。 掲げる目標は、党員、支持者とその友人をはじめ、これまで縁した全ての方々の3400軒を、1年間最低2周。「体調はどう?」「ご要望はありますか」と一人一人に声を掛け、自身の議会質問や実績をまとめた個人報を手渡す。「個人報を読むと、相談事を解決するために動いているのがよく分かる。だからこそ応援したくなる」(70代女性) 留守宅には「次回は3~4カ月後に伺います。要望・ご相談があれば電話やメールでお申し付けください」と記した封筒に個人報を入れてポストに投函。「メモ書きだけでは他の郵便物に埋もれてしまう」と、封筒一つにも垰田のこだわりが詰まっている。 垰田と出会った市民は語る。「垰田さんは、元気をもらえる、まさに動くパワースポット」(40代男性)。「演説がなくても、垰田さんの全身から『一緒に頑張っていこう』という声が聞こえてくる」(高校生)。「公明党は嫌いやったけど、垰田さんを見て印象が180度変わった」(70代女性)。市民を愛し、愛される男は見事なトライを決める。24年9月、2期目に挑んだ市議選で、前回と比べて1443票増やした。 垰田は力を込める。 「99人から悪口を言われたとしても、私を必要とする1人のために闘う。自分の疲れなど、困っている人には関係ない。一瞬の出会いが、その人の一生を左右することがある。だから、一分一秒もムダにはできない」 毎日毎日、垰田は交差点に立ち続ける。市民の声を聴くため、地域のために真剣勝負で。おかんとの絆と、タスキに結んだキャップと共に。 文・平野蓮、写真・堂野俊輔、レイアウト・山口勇輝 https://digital.komei-shimbun.jp/ex-keyword/sunshine-person https://forms.gle/FxJV7iGCL68UQjvf6