能登半島地震で石川県輪島市の自宅兼店舗がビルに押しつぶされ、妻子を亡くした楠健二さん(58)は、2年前に川崎市内で居酒屋「わじまんま」を開店した。二人を助けられなかった自責の念と悲しみは、そう簡単には拭えない。今はただ、人の温もりが心にしみる。「人に頼らないと生きていけないと改めて感じた。みんなの支えのおかげで今がある」=能登半島地震取材班 ■愛する妻子と突然の別れ/被災地のこと忘れないでほしい 2024年の元日、川崎から帰省した長女の珠蘭さん(当時19歳)も交え、家族団らんの時を過ごしていた。午後4時10分。携帯電話の緊急地震速報が鳴り、1回目の地震が襲った。妻の由香利さん(同48歳)は「またくるかも」と、外出着に着替えるよう家族を促した。 その直後、2度目の激しい揺れが。楠さんは後頭部に衝撃を受けて、気を失った。どれくらい時間が流れたか分からない。「気付いたらがれきの中だった」。必死で家族を探し、次男と次女を助けた。 由香利さんと珠蘭さんはがれきに体を挟まれていた。凍てつく寒さの中、必死で救い出そうとした。すぐ目の前にいるのに、それがかなわなかった。「二人には、謝罪しかない。天国にいると思うけど、俺は絶対地獄に行く」 絶望の中で人の優しさに救われた。ボランティア団体の協力もあり、がれきの中から震災前年の誕生日に妻から贈られた“宝物”の腕時計や家族の携帯電話、店で使っていたTシャツやグラスなどを見つけ出すことができた。「感謝してもしきれない」 ■家族を気遣う妻と看護師志した長女 由香利さんは常に家族を気遣う愛情深い人だった。おかげで家族の仲も良かった。 珠蘭さんは看護師を志し、看護学校へ。将来は障がいのある次男を支えたいと言ってくれていた。地震の4日後が20歳の誕生日。成人式には、妻と決めた振り袖を着て、友人と人生の門出を迎えるはずだった。 楠さんは現在、次男と次女との3人暮らし。長男も川崎市内に住む。「仲の良かった家族のそばに」と、市内に墓を見つけた。今年10月ごろに二人の名前が刻まれる。 店を切り盛りする間は障がいのある次男から、1日に20回ほど電話がかかってくる。「突然消えた家族のように『父親もいなくなるのでは』と心配なのかも」。今も二人の死を明確には伝えていないが、気付いているのだろう。仏壇に線香を立てていると、隣で手を合わせる姿に、成長を感じる。 ■「復興中」の札掲げ店は連日にぎわう 家族で輪島へ川崎から移住したのは18年。程なく夫婦で居酒屋をオープンさせ、店も家族も少しずつ輪島に溶け込んだ。あの地震が起こるまでは。 震災から半年。川崎で居酒屋を開店する際も同じ店名「わじまんま」にした。メニューもほとんど変えていない。先月10日、開店から2年を迎えた。常連客も多く、連日、店内は大にぎわいだ。客から温かい励ましの声を掛けてもらえることもあり、前を向く原動力となっている。 店先には「営業中」の脇に大きく「復興中」と書いた札を掲げる。能登の復興が道半ばであることを忘れないでほしいというメッセージと、自身が復興に向けて歩む決意を込めた。 お品書きは、能登から仕入れた、こだわりの魚や地酒がメイン。かつての仕入れ先から割り箸やペーパータオルも取り寄せている。「被害を受けても頑張っている仲間たちを少しでも応援したい」 ■いつか輪島に支店、その時は「営魚中」 亡き妻と交わした約束がある。子どもたちが巣立った後も、輪島で次男と3人で暮らしていこうと。その約束を果たすため、いつか輪島に支店を作りたいと考えている。 真の復興とは何か--。建物などが元通りになるのはもちろんのこと、何より大変なのが「心の復興」だ。それには、長い年月がかかる。報道は減ってきているが、「輪島を、能登を忘れないでほしい」 将来的には「復興中」の札から、魚が売りであることを伝える「営魚中」の札に掛け替えたい。その日を信じ、今を生きる。