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(土曜特集)ユーチューブ誕生20年、社会にもたらした光と影/法政大学 藤代裕之教授に聞く
今年は動画投稿サイト「ユーチューブ」が誕生して20年の節目だった。誰もが手軽に発信・視聴でき、情報の流れを劇的に変えた一方、偽情報の拡散といった負の側面も指摘される。この20年、ユーチューブは社会に何をもたらしたのか。法政大学の藤代裕之教授に聞いた。
■「誰もが発信できる」象徴に
--この20年、ユーチューブが果たした役割をどう見ているか。
ソーシャルメディアが普及する中で、ユーチューブは「誰もが情報発信できる社会」の象徴になったと言える。できた当初は「何を投稿すればいいのか」と誰もが手探り状態だったが、今や私たちのメディア環境そのものを激変させる存在になった。
とりわけ、誰でも発信者になれるという点は、音楽や芸能といったエンターテインメント分野に多大な影響を与えた。
例えば、2012年に韓国発の「江南スタイル」が世界的に大ヒットしたことは、韓国文化が世界中に浸透する大きなきっかけになった。グローバルな動画プラットフォーム(基盤)としてのユーチューブの価値が世界的に認識された転換点の一つだったと思う。
■世界中で「文化輸出」に貢献
--日本国内はどうか。
日本ではピコ太郎の「PPAP」が海外でバズり、その熱狂が日本に逆輸入されるという現象が起きた。最近でもYOASOBIや藤井風といったアーティストが世界的な知名度を得るのに不可欠なツールとなっており、ユーチューブが「文化輸出」に大きく貢献している側面は見逃せない。
また、生配信機能が実装されてからは、政治や選挙での活用も目立っている。
--なぜここまで広く利用されるのか。
かつて動画メディアと言えばテレビしかなかった。ユーチューブが登場するまでは、海外の情報に触れようとしても、国内メディアによって取捨選択、編集されたものしか届かなかった。
しかし今は、海外のニュース映像やミュージックビデオがそのままの形で視聴できる。世界と「直接つながれる」ようになったことこそが、ユーチューブが支持される最大の理由だろう。
■偽情報や過激な主張が拡散/問われるメディアとしての責任
--普及の裏で見えてきた課題は。
ユーチューブを「メディア」と呼ぶべきか否かという議論がある。法的にはユーチューブは、あくまで動画共有の「場」を提供する「電気通信事業者」であり、テレビのような「放送事業者」としての規制は受けない。そのため、投稿されたコンテンツに対してプラットフォーム側は責任を負わないという姿勢が、この20年間の当たり前だった。
しかし、偽情報の拡散や社会への影響力を考えれば、実態は「メディア」そのものだ。誰もが発信できる自由を手にした一方、その副作用が明らかになった20年だったと言える。
--特に若者への影響が懸念される。
若者にとってユーチューブは、かつてのテレビ的な感覚で最も身近な存在だ。ただ、テレビや新聞と違うのは、視聴履歴から自分が好きな情報ばかり表示される「フィルターバブル」や、自分と似た意見に囲まれる「エコーチェンバー」という現象に陥るリスクがあることだ。
若者はある程度このリスクを自覚しているかもしれないが、テレビや新聞をほとんど見ないので情報の入り口がソーシャルメディアに限定されている危うさがある。一方、中高年層もユーチューブのアルゴリズム(計算手順)によって届く情報の偏りに気付かず、いつの間にか“陰謀論”にはまってしまうケースも目立っており、強い問題意識を持っている。
--政治や選挙での活用については。
かつては単なる「動画置き場」だったが、生配信の仕組みが導入されてからは、街頭演説の全編中継など活用の幅が広がっている。一方で、過激な主張や誹謗中傷で「炎上」させた方が注目を集め、発信者が得をするという、ゆがんだ構造も生まれている。その結果、人々に本質的な政策論争が届きにくくなっていることは問題だ。新興政党がこれを既存メディアや既存政党への攻撃材料としてうまく使いこなすなど、ネット選挙が解禁された当時には想定できなかった事態に直面している。
■「アテンション・エコノミー」の規制には時間/信頼性の“見える化”が必要
--どう向き合っていくべきか。
問題の本質は、人々の関心や注目度が収益に直結する「アテンション・エコノミー」の構造にある。かつて既存メディアも視聴率や発行部数のために世間をあおる「イエロージャーナリズム」に陥った歴史があるが、長い時間をかけて倫理規範や制度的な歯止めを築いてきた。今、ユーチューブのようなプラットフォーム企業にも同様の規律が求められており、暴走するアテンション・エコノミーを制御する仕組みを真剣に検討すべき段階に来ている。
自戒を込めて言えば、われわれはソーシャルメディアに期待し過ぎていたのかもしれない。誰もが自由に発信して、社会問題に積極的に関わっていけば世の中は良くなると信じていた。実際、災害時に支援物資が集まったり、音楽など新しい文化を発見できたりと役に立っている。その良い記憶に目を奪われ、課題から目をそらしてこなかったか。いま一度、ソーシャルメディアの社会的位置付けを冷静に見直していく必要がある。
--求められる対応は。
第一にユーチューブ側の責任は重いが、米国のグローバル企業に規制をかけて成果を待つには時間がかかり過ぎるだろう。アテンション・エコノミー自体をなくすことは難しく、日本でしっかり対策を考えていかなければならない。
音楽や芸能の「文化輸出」の基盤としての役割は引き続き重要だろう。一方で、動画メディアは信頼性の低い空間になりつつある。アテンション・エコノミーへの規制ができないうちは、政治や災害といった生活に直結する情報を現状のまま扱うのはリスクが高いとも感じている。
これには人工知能(AI)の影響も大きい。この先、AIで作られた動画と実際に撮影された動画は区別できなくなるだろう。そう考えると、デマや偽情報を見抜く力を養おうとするリテラシー教育自体が、今のAI時代に合っていない。
大切なことは、動画の信頼性の“見える化”だ。食品にオーガニックなのか、添加物が入っているのかを示すラベルが貼ってあるように、その動画がいつ、誰によって、どう作成されたのかを確認できる仕組みが必要になってくるだろう。視聴者が情報を「選べる」環境が整って初めて、個人のリテラシーも真に機能するのだと思う。
ふじしろ・ひろゆき 1973年、徳島県生まれ。広島大学卒、立教大学大学院社会デザイン研究科修士課程修了。徳島新聞社、NTTレゾナントなどを経て現職。専門はソーシャルメディア論。『フェイクニュースの生態系』(青弓社)など著書多数。