長崎はきょう、81回目の「原爆の日」を迎えた。被爆者の高齢化が進み、記憶の継承が課題となる中、長崎市では、被爆者と血縁関係にない人が被爆体験を聴き取り、語り部として活動する「交流証言者」の育成が進んでいる。今回、4歳で被爆した吉田勲さん(享年77歳)の思いを受け継ぎ、交流証言者の一人として活動を続ける田平由布子さん(33)を追った。 「私は顔に生涯消えることのない傷を負いました。核兵器は命を奪うだけでなく、心にも深く傷痕を残します」--。 今月6日、大分市内の中学校で行われた平和学習の授業の様子。平和証言の講師として招かれた田平さんは、亡き吉田さんの被爆体験を自らの記憶のように一人称で語る講話を披露した。聞き終えた3年生の女子生徒は「講話を通して平和の尊さと核兵器の恐ろしさを学んだ。早く平和な世界になってほしい」と感想を述べていた。 田平さんは、2018年10月から交流証言者として活動を開始。現在、長崎市内で不登校児の自立を支援するNPO法人に勤務する傍ら、年6回、県外の小中学校を中心に吉田さんの被爆体験を講話している。 田平さんが平和に関心を持ち始めたのは長崎大学3年生の時。同大学核兵器廃絶研究センターのイベントで、世界が保有する核弾頭の多さに衝撃を受けた。「核兵器はあってはならない。できることはないか」と、核廃絶を求める署名運動に参加するようになった。 17年7月、被爆者と被爆体験の継承を希望する人の交流会に参加し、吉田さんと出会った田平さん。過去に壮絶な被爆体験を持ちながらも、朗らかで核廃絶への強い思いを秘めた吉田さんに心を打たれ、証言を引き継ぐことを決意した。 同年8月、被爆体験の聴き取りを開始。だがその1カ月後、吉田さんは大動脈解離により急逝。突然の訃報に接し、頭が真っ白になった。しかし、吉田さんの家族からの「必ず継承していってください」との言葉に背中を押され、録音データや新聞記事などの資料を頼りに、約9カ月かけて講話原稿を作り上げた。 実際の講話では、吉田さんを身近に感じてもらえるよう一人称で話し、声の抑揚や間の取り方を再現。さらに、核兵器の現状を知ってもらおうと、世界の核弾頭数と同じ数のBB弾を見せて実感を促すほか、原稿を英訳して外国人に語るなど、伝え方に工夫を凝らす。 「一人一人の心に勲さんが生き続け、平和を考える推進力になってほしい」。田平さんは対話の数だけ平和が近づくと信じている。 ◇ 「交流証言者」は、長崎市が公益財団法人・長崎平和推進協会に委託し、被爆体験を次世代に継承する人材を育成する事業だ。被爆者の子や孫が体験を受け継ぐ「家族証言者」も含め、現在69人の証言者が同協会に在籍。うち17人が40歳以下で、若い語り部たちが全国各地で活動している。 こうした平和創出に向けた事業を推進してきた公明党の向山宗子、久八寸志の両市議はこのほど、田平さんと懇談。「次世代を担う平和の語り部が誇りを持って活動し続けられるよう全力で支援していく」と意気込みを語った。 ■吉田勲さんの証言(要旨) 4歳の時、爆心地から約4キロ離れた自宅で祖母と被爆しました。 11時2分。窓の外が急に明るくなったことを覚えています。怖くなり、その場から動けませんでした。しばらくして顔を上げると、窓ガラスは割れ、タンスや仏壇が倒れていました。 祖母と防空壕へ避難する途中、吹き飛んできたトタン屋根が顔に当たり、生涯消えることのない傷を負いました。被爆の影響か全身がかゆくなり、傷も化膿しやすく、小学生の頃は「かさぶた野郎」とからかわれ、つらい思いをしました。 この体験が脳裏に焼き付いて、48年間、被爆者であることを誰にも打ち明けられませんでした。 核兵器は多くの命を奪うだけでなく、心にも深く傷痕を残します。一日も早く核が廃絶されることを願ってやみません。